勇者になれると思ったら、ただのおじさんでした

1 勇者にはなれなかった

子どもの頃、ゲームの中では勇者だった。

剣を持ち、仲間を集め、魔王を倒す。
世界の未来は、自分の選択にかかっていた。

大人になった今、持っているのは剣ではない。

スマートフォン。
社員証。
住宅ローン。
健康診断の結果。
翌朝まで残る疲労。

金髪の女性から、

「あなたには、特別な才能があります」

と言われて喜んだら、保険か投資の勧誘だった。

他人の家の宝箱を開ければ窃盗。
壺を割れば器物損壊。

現実世界では、勇者補正は適用されない。

今日も、地下鉄をくぐって出勤する。

もちろん、運賃として支払うのはリアルマネーだ。

ギルでも、ゴールドでも、マッカでもない。

改札を抜け、会社という自分の居場所へ向かう。

地下鉄の車内には、疲れた顔の会社員が並んでいる。

誰も話さない。
誰も笑わない。
月曜日になると、全員が同じ方向へ移動する。

ゾンビ集団の出勤風景に少し似ている。

会社へ行けば、私にも役職がある。

勇者にはなれなかった。
英雄にも、伝説の剣士にもなれなかった。

しかし、主任にはなった。

部下が少しいて、責任がある。
会議では意見を求められ、月末の数字にも追われる。

魔王から世界を守る代わりに、納期、クレーム、人員不足から部署を守っている。

給料日には、経験値ではなく銀行口座の数字が増える。

ただし、税金と社会保険料という強敵に、かなりの部分を持っていかれる。

勇者になれると思っていた少年は、いつの間にか、主任のおじさんになっていた。

2 転職――たーま神殿へ

仕事がつらくなり、転職を考えた。

ゲームなら、神殿へ行けば職業を変えられる。

そこで私は、転職施設「たーま神殿」へ向かった。

正確には、転職エージェントである。

担当者は明るく、よいことをたくさん言った。

「これまでの経験を生かせます」

「年収アップが期待できます」

「将来は管理職を目指せます」

「企業側も、あなたのような人を求めています」

話を聞いている間は、自分が新しい物語の主人公になったような気がした。

ところが、紹介された求人を詳しく見ると、

「え?」

という内容だった。

勤務地までは、高速道路を使って通勤する必要がある。

通えないなら、引っ越しが必要だった。

会社の評判を調べると、あまりよくない。

社長は、かなりのワンマンらしい。

給料は確かによかった。

しかし、その分だけ責任が重く、仕事も相当に大変そうだった。

転職エージェントは、うそをついていたわけではない。

ただ、よい部分を大きな声で説明し、都合の悪い部分を小さく表示していただけだった。

転職画面に並んでいた職業は、次の四つだった。

おじさん。
善き夫風の何か。
ゾンビ。
英雄風の何か。

おじさんは、疲労耐性だけが少し上がる。

善き夫風の何かは、家族サービスと住宅ローンを装備する。

ゾンビは、目が死んでいても、月曜日になると自動的に出勤する。

英雄風の何かは、責任と給料が増える。

ただし、責任の増え方のほうが大きい。

思っていた転職と違う。

「もっとよい職業はありませんか」

と聞くと、現実はこう答えた。

「年齢、経験、資格、現在の年収を考えると、このあたりです」

現実の転職には、勇者という選択肢がなかった。

3 フィナンシャルファンタジー

転職すれば年収が上がる。

投資を始めれば老後は安心。

家を買えば一人前。

努力すれば、いつか必ず報われる。

そういう、お金をめぐる幻想の物語を、私は勝手に「フィナンシャルファンタジー」と呼ぶことにした。

略してFFである。

しかし、現実にはセーブポイントがない。

転職に失敗しても、前の会社には簡単には戻れない。

投資で損をしても、リセットはできない。

住宅ローンは、ラスボスを倒しても消えない。

再転職するのか。

今の会社で我慢するのか。

ゲームなら攻略情報を見るのに、自分の人生になると、なぜか何も調べずに決めようとする。

本当の給料はいくらなのか。

休日は何日あるのか。

高速道路代は誰が払うのか。

引っ越しにはいくらかかるのか。

退職金はあるのか。

会社や社長の評判はどうなのか。

その仕事を、あと10年続けられるのか。

相手が「あなたのためです」と言っている話は、本当に自分の得なのか。

転職を成立させたい相手の得ではないのか。

大きな声で言われていること。

周りの人がしていること。

もっともらしく聞こえること。

何度も目にすること。

それが、自分に合うとは限らない。

現実の冒険では、まず自分で調べる必要がある。

4 あの頃の彼女

妻と初めて会ったのは、22歳の頃だった。

同い年だった。

女友達に紹介してもらった。

当時の彼女は、かわいくて、明るかった。

ミニスカートがよく似合い、ショートカットが素敵だった。

よく笑い、男性からも女性からも人気があった。

紹介してくれた女友達からは、

「もてるから、早めに告っちゃって」

と言われていた。

私は勇者ではなかったが、そのときだけは少し勇気を出した。

付き合い始めて、3年半ほど一緒に過ごした。

しかし、一度別れることになった。

理由は、今になって考えれば誤解だった。

彼女は、ある男性と頻繁に連絡を取っていた。

本人は、

「仕事関係のやり取りだよ」

と言っていた。

しかし、私は疑った。

何度も聞いた。

しつこく確認した。

彼女はサバサバした性格だった。

そんな私に、

「心配症なの?」

「小さい男は嫌い」

と言った。

私は、彼女を失いたくなかった。

しかし、失うことを恐れるあまり、相手を信じることができなくなっていた。

不安というモンスターに負け、二人は別れた。

それから年月が流れた。

32歳のとき、私たちは再会した。

過去の誤解や、離れていた時間を抱えたまま、もう一度話をした。

そして、結婚することになった。

ゲームなら、失った仲間が物語の途中で再加入する場面だった。

5 妻が変わったと思っていた

家に帰ると、妻がいる。

22歳の頃の、ミニスカートが似合っていた彼女とは、見た目も生活も変わった。

以前ほど笑わなくなった。

お互いに若さを失い、生活の疲れを身につけた。

私は心の中で、

「妻は変わってしまった」

と思うことがあった。

しかし、鏡を見ると、こちらにも疲れたおじさんが立っていた。

髪には白いものが混じった。

休日は寝ている。

仕事の愚痴が増えた。

昔ほど、妻の話も聞いていない。

彼女だけが変わったのではない。

自分も、同じ年月を生きていた。

昔の彼女と、今の自分を比べていた。

自分の変化には気づかず、相手にだけ昔の姿を求めていた。

22歳の自分も、もうここにはいない。

妻が変わったと思っていたら、自分もまた、立派なおじさんになっていた。

6 娘たちと京都

結婚後、娘が二人できた。

二人とも、あまり手のかからない娘だった。

両親は、孫ができたことを特に喜んだ。

私は長男だった。

姉が二人いるが、二人とも京都に住んでいた。

実家も京都にあった。

本来なら、長男の自分がもう少し顔を出すべきだったのかもしれない。

しかし、仕事が忙しかった。

休みが取れない。

移動に時間がかかる。

子どもを連れていくのも大変だ。

理由はいくらでもあった。

結局、娘たちを連れて帰省したのは、二度だけだった。

京都の料理を食べた娘たちは、

「味がうす~い」

と言った。

細い道を走れば、

「道が狭い~。車じゃないの?」

と言った。

両親は、そんな孫たちを見て笑っていた。

その光景は、ずっと続くものだと思っていた。

次の休みに行けばいい。

仕事が落ち着いたら行けばいい。

娘たちが、もう少し大きくなったら行けばいい。

両親は、いつでも京都にいる。

なぜか、そう思っていた。

娘が5歳のとき、両親は次々に他界した。

二人とも74歳だった。

両親のことは、京都にいる姉たちに任せっきりだった。

病院のこと。

身の回りのこと。

実家のこと。

私は長男だったが、遠くから連絡を受けるだけだった。

仕事が忙しかった。

家庭もあった。

簡単には帰れなかった。

それは事実だった。

しかし、事実を並べても、失った時間は戻らない。

ゲームなら、教会へ行けば仲間を生き返らせることができる。

復活の呪文を入力すれば、少し前からやり直せる。

しかし、現実では何度呪文を唱えても、両親は戻ってこなかった。

7 京都の墓

家族で、京都の墓へ行った。

蝉がうるさいほど鳴いていた。

足元には、干からびて死んだミミズがいた。

墓石に触れてみた。

冷たいのか、熱いのか、自分でもよく分からなかった。

母は、いつも動いている人だった。

家の中でも外でも、何かを見つけては動いていた。

父は豪快な人だった。

声も笑い方も大きく、その場にいるだけで存在感があった。

しかし、墓の前では何も聞こえなかった。

母の声も、父の笑い声もない。

蝉の声だけが響いていた。

墓参りをしたから、両親が喜んでいるとは思えなかった。

花を供え、手を合わせても、あの二人が墓の中で待っているようには感じなかった。

両親が本当に喜んだのは、生きているときだった。

娘たちが、

「味がうす~い」

「道が狭い~」

と言い、両親が笑っていた、あのときだった。

あのときに、もっと帰っていれば。

あのときに、もう少し電話をしていれば。

あのときに、娘たちをあと一度でも会わせていれば。

墓の前で何度考えても、時間は戻らなかった。

両親がいなくなるとは、考えていなかった。

人は、いつか死ぬ。

そんなことは知っていた。

しかし、自分の両親がいなくなることだけは、どこか遠い物語のように思っていた。

人生には、取り返せる失敗と、取り返せない時間がある。

そのことを知ったのは、復活させたい人が、もういなくなったあとだった。

8 龍神社とチキン定食

ある日、昔遊んだドラゴンクエストのことを考えながら歩いていると、龍神社があった。

ドラゴンのことを考えていたら、龍神が出てきた。

単純な私は少し面白くなり、その神社へ通うようになった。

特別な奇跡が起きたわけではない。

神社へ行くために外へ出た。

少し歩いた。

姿勢を正した。

静かな場所で、自分のことを考えた。

すると、少しずつ頭がしゃきっとしてきた。

帰りに、ランチでチキン定食を食べた。

鶏肉を見ながら、ふと思った。

これは、もともと一羽の鳥だったのだ。

生きていたものを、自分は食べている。

毎日、何かの命をもらい、誰かが作った電気を使い、誰かが運んだ商品を買い、誰かが建てた家で暮らしている。

両親から命をもらった。

姉たちに、両親を支えてもらった。

妻と出会い直し、娘が二人できた。

自分一人で生きてきたような顔をしていたが、実際には、多くの人と命に支えられていた。

9 あの日の勇者は、どこへ行ったのか

あの日、ドラゴンクエストをしていた自分。

あの日、ファイナルファンタジーをしていた自分。

クロノ・トリガーで、未来は変えられると思っていた自分。

ファイアーエムブレムで、仲間を失わないように何度も作戦を考えた自分。

いつか無双する。

何者かになる。

大きな夢を実現する。

その夢は、どこへ行ったのだろう。

仕事に疲れ、家庭に疲れ、年齢を重ねるうちに、夢を見ること自体をやめていた。

ふと、家庭がなかった場合を想像した。

32歳で彼女と再会しなかった人生。

結婚しなかった人生。

娘たちが生まれなかった人生。

帰宅しても、誰もいない。

話す相手もいない。

自分の帰りを気にする人もいない。

両親の思い出を話せる家族もいない。

自由だったかもしれない。

しかし、静かすぎる部屋の中で、一人でチキン定食を食べる自分を想像すると、それが本当に幸せなのか分からなくなった。

両親に、もっと会えばよかった。

その後悔は消えない。

復活の呪文も使えない。

過去のセーブデータにも戻れない。

だからこそ、今いる人まで「いつまでもいる」と思ってはいけないのだろう。

妻も、娘たちも、自分も、少しずつ年を取っている。

今日と同じ日が、永遠に続くわけではない。

勇者になることだけが、成功ではなかった。

世界を救わなくてもいい。

毎日働く。

会社へ行く。

主任として責任を果たす。

家に帰る。

妻と話す。

娘たちの顔を見る。

一緒に食事をする。

疲れたら休む。

また翌朝、地下鉄をくぐる。

それも、一つの冒険だった。

妻が変わったと思っていたら、自分も変わっていた。

人生が失敗したと思っていたら、すでに多くのものを手に入れていた。

勇者になれなかった私は、ただのおじさんになった。

しかし、ただのおじさんにも役割がある。

守るものがある。

会社という居場所がある。

一度別れ、もう一度出会い直した妻がいる。

二人の娘がいる。

そして、自分をこの世界へ送り出してくれた両親がいた。

人生には、リセットボタンはない。

失った時間をやり直すこともできない。

それでも、今いる人を大切にすることはできる。

電話をする。

顔を見に行く。

話を聞く。

一緒に食事をする。

そんな小さな行動を、次の休みまで先延ばしにしないことはできる。

あの日の勇者は、消えたのではない。

主任になり、夫になり、父親になったおじさんの中で、今も生きている。

世界は救えなかった。

それでも、自分のそばにいる人を大切にすることはできる。

それが今の自分に残された、いちばん大切なクエストなのかもしれない。

※掲載している画像は、AIで生成したイメージです。実在の人物・場所・団体とは関係ありません。