後ろの正面、だあれ?

―― テンプレートという名の籠

朝が来ました。

お湯が沸いて、洗濯機が回ります。

主婦には主婦のルーティン。
サラリーマンにはサラリーマンのルーティン。

子どもは学校へ行き、大人は職場へ向かいます。

チャイムが鳴れば席につき、時間になれば仕事を始める。

昨日と同じ道。
昨日と同じ挨拶。
昨日と同じようなニュース。

テレビからは、元気いっぱいの声が聞こえてきます。

「今、大人気!」

「驚きの新商品!」

「専門家も大絶賛!」

ああ、今日も世界は正常運転。

……本当に?

◇

学校という場所で、決められた時間に、決められたことを学ぶ。

卒業すると、今度は職場という場所で、決められた時間に、決められた仕事をする。

もちろん、それが悪いわけではありません。

人間社会には、ある程度の決まりごとが必要です。

ただ、ちょっと気になることがあります。

いつの間に、決められたことをする人が「正しい人」になったのでしょう。

誰が決めたのでしょうか。

誰から聞いたのでしょうか。

そもそも、本当に自分で考えたことがあるのでしょうか。

「普通はこうするものです」

はい、出ました。

万能の呪文、「普通」。

とても便利な言葉です。

使い方も簡単。

説明が面倒になったとき、ポンと置くだけ。

たちまち、周囲の人々が納得したような顔をします。

しかも、どういうわけか、使った本人まで安心してしまう。

なかなか不思議な呪文です。

◇

テレビをつけます。

すごい商品。
すごい先生。
すごい技術。
すごい人生。

すごい、すごい、すごい。

……何が?

何がどうすごいのでしょう。

広告には広告のテンプレートがあります。

「こんなお悩み、ありませんか?」

あります。

「そんなあなたに!」

えっ、私?

「驚きの新商品!」

おおっ!

……ちょっと待ってください。

私は、まだ何も困っていなかった気がするのですが。

いつの間にか悩みを与えられ、解決策まで用意されていました。

なんという親切設計。

これで安心です。

たぶん。

でも、この仕組みは広告だけではありません。

人間関係にも、社会にも、そして自分自身の心の中にもあります。

私は、これを仮に「テンプレ意識」と呼んでみたいと思います。

ある出来事に遭遇したとき、自分で感じたり考えたりするより先に、用意された反応を取り出してしまう。

みんなが怒っているから、怒る。

みんなが褒めているから、褒める。

みんなが怖がっているから、怖がる。

そして、誰かが違うことを言い始めると、なんだか落ち着かなくなる。

どうしてでしょう。

それは、同じであることが安心につながるからかもしれません。

人間には、仲間から外れることを恐れる心理があります。

もともと集団で暮らしてきた生き物ですから、ある程度は自然なことです。

けれども、

同じであることと、正しいことは、同じなのでしょうか。

安心することと、幸せであることも、本当に同じなのでしょうか。

◇

かごめ、かごめ。

籠の中の鳥は、いついつ出やる。

夜明けの晩に、鶴と亀がすべった。

後ろの正面、だあれ?

……誰なのでしょう。

ヒト?

それとも、私?

籠の外にいるつもりで、実は籠の中にいる。

外へ出ようと思えば、扉が見つからない。

それどころか、籠の中には立派な家具が置かれています。

冷暖房完備。

食事つき。

世間体も良好。

隣の籠には、お友達も住んでいます。

「いやあ、今日もいい天気ですねえ」

「そうですねえ」

……籠の中なので、お天気はよく分かりません。

でも、みんながそう言っているので、きっといい天気なのでしょう。

これは快適です。

もう出なくてもいいかな。

そう思ってしまうのも、無理はありません。

人間には、習慣によって物事を効率よく処理する能力があります。

毎朝、歯磨きの方法を一から考えていたら、それだけで疲れてしまいます。

型があるからこそ、私たちは安心して暮らせるのです。

ただし、その型が、いつの間にか判断する力まで引き受けてしまったら?

ここから少し、話が変わってきます。

◇

「政治が悪い!」

なるほど。

そうかもしれません。

では、どうしましょう。

いっそのこと、天から雷でも落としてもらいますか?

ちょうど雲の上に、雷神様がいらっしゃいました。

「あのう、雷をひとつ、お願いできますか?」

雷神様は、太鼓を抱えながら、ちょっと困ったような顔をしています。

「いやぁ、いま電力が不足していてねぇ。そんな大がかりなこと、できないよ」

……そうですか。

神様の世界にも、電力事情があるようです。

雷神様は、申し訳なさそうに太鼓をポンと叩きました。

小さな火花が、ひとつ。

どうやら節電中のようです。

では、巨大な隕石でも落として、全部まとめて解決してしまいましょうか。

今度は、お釈迦様に相談してみます。

「あのう、お釈迦様。隕石というものを……」

「ん? ああ、ちょっと、いま忙しくてねぇ……」

お釈迦様は、何やら別の方とお話し中。

そして、こちらではない誰かに向かって、

「ああ、それはやめておいてよ。被害が出たら困るからねぇ」

……えっ。

誰か、もう準備していたのでしょうか。

とりあえず、隕石は中止となりました。

よかった、よかった。

さて。

政治が悪いという問題は、まだ残っています。

困りましたね。

誰かが悪い。
あの人が悪い。
あの会社が悪い。

原因を探すことは大切です。

必要なら、責任を明らかにすることも大切でしょう。

けれども、悪者を決めた瞬間に、問題が解決するわけではありません。

怒りは、とても強いエネルギーです。

しかし、エネルギーと方向性は別のもの。

怒っているから正しい。

傷ついたから正しい。

不愉快だから、相手を裁いてよい。

本当に、そうでしょうか。

相手が自分をイライラさせたら、一方的に裁いてよいのでしょうか。

それを正義と呼ぶのでしょうか。

それとも、愛でしょうか。

愛って、復讐なのでしょうか。

◇

ところで、シンデレラというお話があります。

いじめられていた少女の前に、やがて王子様が現れる。

美しいお話です。

夢があります。

魔法使いのおばあさんも登場します。

かぼちゃが馬車になって、ネズミが馬になって。

なかなか大がかりな改造工事です。

しかも、費用は無料。

ありがたいことです。

でも、ちょっと考えてみます。

王子様が来るまで、何が起きていたのでしょう。

いじめていた人。

それを見ていた人。

見て見ぬふりをした人。

その人たちは、どうなったのでしょうか。

そして、もし自分がその場にいたなら?

一緒になって笑っていなかったでしょうか。

「あの子、ちょっと変わっているよね」

そんな言葉に、なんとなく頷いていなかったでしょうか。

もちろん、いじめられた人に責任があるという話ではありません。

問いたいのは、その周囲にいた人たちのことです。

自分が直接いじめていなければ、それでよいのでしょうか。

誰かの不幸を、面白い出来事として眺めていなかったでしょうか。

集団の中で生まれた不条理を、普通のこととして受け入れていなかったでしょうか。

そして、王子様が現れた途端に、

「よかったね!」

と拍手をする。

……それで、すべて解決なのでしょうか。

物語の結末が美しいからといって、途中にあった不条理まで消えてしまうわけではありません。

現実の世界では、魔法使いも王子様も、必ず現れるとは限りません。

それならば、自分はどう生きるのか。

誰かの物語に用意された役を演じるのではなく、自分自身の判断で行動する。

そこから、本当の意味での自分の物語が始まるのかもしれません。

◇

夕暮れ。

街角のお店で、誰かがハンバーガーを食べています。

なんだか、とてもまずそうです。

眉間にしわを寄せて、ため息をついて。

口に運んでは、スマートフォンを眺めています。

……そのハンバーガーは、まずそうに食べられるためにつくられたのでしょうか。

小麦を育てた人がいます。

野菜を育てた人がいます。

お肉を加工した人がいて、パンを焼いた人がいて、店員さんが包んでくれました。

そして、いま目の前にあります。

もちろん、おいしいかどうかは人それぞれ。

本当に口に合わないことだってあるでしょう。

でも、ひょっとすると。

ハンバーガーの味とは、まったく関係のないことで、頭がいっぱいなのかもしれません。

仕事のこと。

人間関係のこと。

昨日、誰かに言われたこと。

明日、起こるかもしれないこと。

目の前にあるハンバーガーは、すっかり置き去りです。

「今日も最悪だ」

そう思いながら食べるハンバーガー。

ひょっとすると、ハンバーガーは何も悪くないのです。

ハンバーガーにも、少しくらい言い分があるかもしれません。

「いや、私、ただのハンバーガーなんですけど……」

……ごもっとも。

◇

人には、それぞれの暮らしがあります。

同じ時間に起きる人。

毎日同じ道を歩く人。

決まったものを食べる人。

それは、それでいいのだと思います。

同じことを繰り返す中に、幸せを感じる人もいるでしょう。

一方で、昨日と違う道を歩いてみたくなる日もあります。

いつもと違うものを食べたくなる日もあります。

理由もなく、遠くの山を見たくなることだってあります。

そんなとき、

「そんなことをして、何になるの?」

と言われてしまう。

……何かにならないと、いけないのでしょうか。

空を見上げることに、資格が必要でしょうか。

鳥の鳴き声を聞くことに、成果報告書が必要でしょうか。

庭のトカゲが走っている。

白い鳩が、屋根にとまっている。

猫が突然、道の真ん中でゴロンと寝転がる。

それを見て、

「おお、今日は元気だなぁ」

と思う。

それだけでは、いけないのでしょうか。

何かを得なければ。

何かを達成しなければ。

誰かに認められなければ。

いつから私たちは、生きている時間に、いちいち理由を求めるようになったのでしょう。

◇

私は、占いという仕事をしています。

さまざまな方のお話を伺いますが、ときどき感じることがあります。

その方が本当に望んでいることと、その方が「望むべきだ」と思っていることが、少し違っているのです。

幸せになりたい。

では、どんな幸せでしょう。

成功したい。

では、誰にとっての成功でしょう。

愛されたい。

では、どんな愛でしょう。

みんなと同じように結婚したい。

みんなと同じように豊かになりたい。

みんなと同じように幸せになりたい。

でも、少し丁寧にお話を伺ってみると、

「あれ? 私、本当はそんなこと望んでいないのかも……」

そんな気づきが生まれることがあります。

自分の願いだと思っていたものが、実は誰かの価値観だった。

そんなことも、あるのです。

これは決して、珍しいことではありません。

人は成長する中で、家族や学校、職場、社会から、さまざまな価値観を学びます。

それ自体は自然なことです。

ただ、学んだことが、すべて自分に合っているとは限りません。

服のサイズが人によって違うように、幸せの形も人によって違います。

大きな家が欲しい人もいれば、小さな部屋で静かに暮らしたい人もいるでしょう。

たくさんの友人と過ごしたい人もいれば、一人でお茶を飲む時間が好きな人もいます。

どちらが上でも、下でもありません。

そして、そこに正解のテンプレートがあるわけでもないのです。

おいしいご飯を食べること。

静かに眠れること。

庭に咲いた花を見ること。

誰にも急かされず、好きな道を歩くこと。

そんな小さなことが、その人にとっての大きな幸せかもしれません。

◇

かごめ、かごめ。

籠の中の鳥は、いついつ出やる。

後ろの正面、だあれ?

誰かが答えを教えてくれるのでしょうか。

学校の先生でしょうか。

政治家でしょうか。

テレビの中の有名人でしょうか。

それとも、占い師でしょうか。

……さて。

私は、誰なのでしょう。

あなたは、誰なのでしょう。

「こうあるべき」

「普通はこう」

「みんなそうしている」

そんな言葉を、これまで何度も耳にしてきたと思います。

その中には、役に立つものもあります。

大切にしたい教えもあるでしょう。

だから、すべてを否定する必要はありません。

けれども、ときには尋ねてみてもいいのではないでしょうか。

それは、本当にそうなの?

誰が言ったの?

誰から聞いたの?

そして、

私は、本当はどう感じているの?

◇

今日も朝が来ます。

洗濯機が回ります。

会社の始業時間が近づきます。

学校では、いつものチャイムが鳴ります。

きっと、昨日と似たような一日が始まるのでしょう。

でも、昨日とまったく同じ一日になるとは限りません。

窓の外で、知らない鳥が鳴いているかもしれません。

道端に、小さな花が咲いているかもしれません。

いつものハンバーガーが、今日は妙においしいかもしれません。

そんなときは、少しだけ足を止めてみてもいいのではないでしょうか。

籠を壊す必要はありません。

誰かと戦う必要もありません。

ただ、扉が開くこともあるのだと、知っておく。

そして、外に何があるのか、ちょっと覗いてみる。

もしかしたら、そこには思ってもいなかった景色が広がっているかもしれません。

ちなみに、空から雷が落ちてくる心配は、今のところなさそうです。

雷神様は節電中ですし。

お釈迦様も、お忙しいようですから。

どうやら、私たちの暮らしは、私たち自身で考えていくしかないようです。

それもまた、なかなか面白いことではありませんか。

かごめ、かごめ。

後ろの正面、だあれ?

その答えは、案外、誰も教えてくれないものなのです。

そして、答えがひとつだけとも限らないのです。


占い屋ポセイドン なお希